とりあえずの言葉
かざみどりのように
とりとめもなく
とりあえず とりあえず
生きてきた
ある日 蚊取り線香のうずが
灰になるように
とりもどせない
自分の時を 思った
他人に 取り越し苦労して
とりつくろっては
きたものの
いつも あとにとり残された
自分が いた
自分の青い鳥
とりにがすのも自分
とりあえず とりあえずが
いつか そのうち 命取り
自分の足取り 確かに感じて
鳥のように 自由に
色とりどりに 生きてゆきたい
生きてゆきたい
いつの頃か、日本語の中に”とり”という音(おん)が沢山あることに気づいた。またとりあえずという言葉が、やたら耳につくようになった。今、そのとりあえずが本来の意味を越えて、現代人の生き方を象徴する言葉に進化してしまっている気がしてこのような歌が私の中からおのずと生まれた。
自分もある時までとりあえず生きてきた口なので、そのむなしさ、不安、苦しさも一応わかるつもりだ。しかし本当のところは、人生はとりあえずではない生き方を探す旅でもあるのだ。が、その旅の途中でその目的がいつの間にかとりあえずの目的にすりかえられてしまうことがある。
又、とりあえずではない生き方なぞないとあきらめて、とりあえずの生き方に甘んじてしまう人もいる。現代では そういう人種が日本列島をおおっている。世界で最たる高度成長を成し遂げたと思いきや、じつはバブルという蜃気楼の世界をつくりあげたのも彼らである。
しかし、ここに一人、とりあえずではない代表選手がいる。中坊公平、その人である。バブルの先駆け、住専七社が十三兆円もの負債を抱え、倒産した時、その後始末を引き受け政府や銀行を向こうにまわし、自分を絶体絶命の立場において司法の理念を具現的に貫き通した弁護士さんである。「中坊公平の人間力」という本を読む時、とりあえずではない生き方が現に存在すること、そういう生き方での「個」の力は大きく、組織や権力にも対抗し得る強さをもつことなどを、実践という裏打ちを通して私達は教えられる。彼は、国民の側に立って司法を生きる者として、司法の世界とは日常かけ離れて暮らす私達に自分達が知らずに持っている宝を大事にしろと言う。すなわち、憲法の三大原則である国民主権、人権擁護、平和の中でも、「国民主権」は人類普遍の原理であり、一切の憲法、法令、詔勅を もってしても変えることはできないと言う。彼は、この伝家の宝刀を正しく理解し、よりよき 社会実現のために活用すべきだと、国民主権の実質化運動を勧める。
とりあえず諸君へ。自分の顔がなくなったり、のっぺら坊になったりするほど情けないことはない。その前に一歩を踏み出そう。